暗黙知の形式知化は、判断の理由を残すことから始まる

公開日:

2026/9/29

最終更新日:

2026/9/28

「その件なら、あの人に聞けばわかる」。カスタマーサポートの現場には、そんな頼れる人がいます。

同じマニュアルを読んでいても、その人は確認すべき履歴にすぐたどり着き、例外を見抜き、お客様に合った説明を選べる。その働きを支えているのが、経験の中で身につけた知識です。

この知識をチームに広げようとすると、まずマニュアル化が候補に上がります。ただ、作業手順を詳しく書いても、同じように判断できるとは限りません。熟練者が「何を見て、なぜその対応を選んだのか」が、手順の行間に残っているからです。

暗黙知は経験の中で身につく

暗黙知とは、行為や判断を支えているものの、本人が言葉やルールとして十分に説明しきれない知識です。
経験に根ざした技能だけでなく、何に注目するかという着眼点や、状況をどう解釈するかという前提も含みます。

対して形式知は、文章、図、数式、手順など、共有できる形で表現された知識を指します。
ただし、この区別や両者の関係には、研究者によって異なる捉え方があります。

議論の出発点にあるのが、哲学者マイケル・ポランニーです。『The Tacit Dimension』で示した「人は、言葉で語れる以上のことを知っている」という趣旨の命題は、説明できる内容だけを集めても、人の知識の全体には届かないことを示しています。科学的な知識にも、明文化された命題を支える実践や判断があるという見方です。( Polanyi, The Tacit Dimension )

カスタマーサポートに置き換えると、同じ応対履歴を読んでも、熟練者だけが「以前の案内との食い違い」に気づく場面が考えられます。情報は全員に見えていても、何を意味のある手がかりとして拾うかが違う。暗黙知の問題は、情報を持っているかに加えて、その情報を使って何ができるかに関わります。

したがって、暗黙知を「ベテランの頭の中にある未公開マニュアル」とだけ捉えると、対象を狭めすぎます。書き出せる知識もあれば、説明を受けたうえで練習しなければ身につかない知識もあります。本稿では、代表的な理論と実証研究を横断し、この違いが形式知化の進め方にどう関わるかを整理します。

言葉にしにくい理由は一つではない

社会学者ハリー・コリンズは、暗黙知を三つに区別しました。人と人の関係や伝達の事情による関係的暗黙知、身体や脳の働きに関わる身体的暗黙知、社会や集団の実践に根ざす集合的暗黙知です。「説明されていない」という状態の背景を分けることで、知識を伝える方法も考えやすくなります。( Collins, Tacit and Explicit Knowledge(2010))

次の表の実務例と対応は、この分類を踏まえた本稿の整理です。現場の知識が必ず一つの種類に収まるわけではありません。

観点

言葉にしにくい背景

実務への示唆

関係的暗黙知

何を伝えるべきか気づかない、相手も知っていると思っている

作業を一緒に振り返り、省略された前提を質問する

身体的暗黙知

タイミングや動作の調整を、説明どおりにすぐ実行できるとは限らない

実演、反復練習、具体的なフィードバックを組み合わせる

集合的暗黙知

言葉の使い方や適切さの判断が、集団の実践に埋め込まれている

現場への参加や共同作業を通じて、文脈ごと学ぶ

たとえば、問い合わせ先の一覧は、書き出せば共有できる未文書化情報です。

一方、お客様が説明を理解できていないと察して話す速度を調整することや、部門間で相談するタイミングを見極めることには、記録だけでは伝わりにくい要素があります。同じ「属人化」という言葉でまとめても、必要な手当ては異なります。

この整理から導ける実務上の方針は、まず「何が伝わっていないのか」を確かめることです。説明の抜けなら記録を補い、技能の習得なら練習を設け、共通の文脈が足りなければ共同で仕事をする機会をつくる。

文書化は有力な方法ですが、それだけで全種類の問題を解けるとは限りません。

形式知化は知識創造の循環に位置づく

野中郁次郎の知識創造論は、暗黙知と形式知の相互作用に注目します。1994年の論文で整理された四つの様式は、SECIモデルとして知られる枠組みにつながっています。経験を共有する「共同化」、経験を言葉や概念にする「表出化」、明示された知識を組み合わせる「連結化」、実践を通じて身につける「内面化」です。( Nonaka(1994) )

カスタマーサポートなら、熟練者の対応を見学し、判断の手がかりを振り返り、既存の規程やFAQとつなぎ、別の担当者が案件で使ってみる、という活動に対応づけられます。これは本稿による適用例です。「形式知化」を表出化だけで終わらせず、その前後にある経験の共有と実践まで設計すると、知識を引き継ぐ仕事の範囲が見えてきます。

ただし、SECIは知識創造を捉える理論的な枠組みであり、すべての暗黙知を完全に文章へ変換できると実証したものではありません。野中とフォン・クローグは2009年の論文で、暗黙知と形式知を連続体の上で区別する立場を示し、知識変換をめぐる批判や論争を整理しています。( Nonaka & von Krogh(2009) )

別の角度を提示したのが、クックとブラウンです。彼らは「保有している知識」と「実践の中で知ること」を区別し、暗黙的・明示的、個人的・集団的な知識を、それぞれ固有の役割を持つものとして扱いました。実務への示唆は、知識ベースを充実させることと、現場で使える力を育てることを一緒に考える必要がある、という点です。これらの理論は同一ではありませんが、文書の蓄積だけでは実践を十分に説明できない点を考える材料になります。( Cook & Brown(1999) )

知識移転の障害は受け手と関係にもある

では、組織の中で知識が伝わりにくい原因は何でしょうか。

シュランスキーは、8社における122件のベストプラクティス移転を調べました。調査で主要な障害として示されたのは、受け手が知識を吸収する能力の不足、何が成果につながっているかの不明瞭さ、そして伝え手と受け手の関係の難しさでした。

知識を教える意欲だけで説明できる問題ではなかったのです。( Szulanski(1996) )

この結果は、暗黙知の形式知化だけを測ったものでも、マニュアルの効果を無作為比較した実験でもありません。それでも、知識を渡した後に使えるかどうかは、受け手の前提知識や質問できる関係にも左右される、という論点を示しています。特定企業群の調査結果を、そのまま全職場の因果法則として扱うことはできません。

現場に引き寄せれば、「資料は渡したのに、なぜできないのか」と問う前に確認すべきことがあります。専門用語や業務の前提は共有されているか。なぜその対応が有効なのか説明されているか。わからない点を本人に聞けるか。この三つを整えることも、知識移転の仕事に含めるべきだと考えられます。

手順を残しても判断は残らない

たとえば、返品対応を考えてみます。以下は説明のための仮想例です。

マニュアルには「注文を検索する」「返品条件を確認する」「手続きを案内する」と書かれている。それでも新人は迷い、熟練者は迷わない。違いは、ボタンの押し方だけにはありません。

熟練者は、購入日だけでなく、前回の問い合わせ内容や、すでに別の担当者が案内した内容まで確認しているかもしれません。「今回は通常の案内を繰り返すと、お客様をさらに混乱させる」と判断し、手続きを進める前に責任者へ確認する。画面上の操作は数回でも、その背景には複数の情報を結びつける判断があります。

ここで操作手順だけを保存すると、新人は同じ画面を開けても、対応を切り替える条件がわかりません。「状況に応じて適切に対応する」という一文を足しても、その状況を見分ける手がかりは伝わらないままです。形式知化で取り出したいのは、この判断の分かれ目です。

形式知化は具体的な場面から始める

具体的な案件から熟練者の知識を引き出す方法にも、研究の蓄積があります。

クラインらのCritical Decision Method(CDM)は、実際の出来事を振り返り、重要な手がかりや状況の見分け方を質問して、専門家の判断を調べる方法です。消防指揮官や技術者などへの適用が報告されています。

これは知識を引き出す方法論であり、質問すれば判断の全過程が必ず説明できるという保証ではありません。( Klein, Calderwood & MacGregor(1989) )

熟練者に「コツを全部教えてください」と聞いても、知識を取り出すのは難しいものです。本人にとって当たり前になった確認ほど、説明から抜け落ちます。まずは実際の対応を一件選び、記録を見ながら判断した場面を振り返るところから始めます。

「この履歴を先に開いたのはなぜか」「どの情報を見て、通常対応では足りないと考えたか」「その情報がなかったら、対応は変わったか」。こうした問いで、行動と理由を結びつけます。特に、よく似た二つの案件で対応が分かれた場面は、判断条件を探る材料になります。

生成AIを使うなら、応対記録や振り返りの内容から、共通する条件や説明の抜けを整理する補助が考えられます。ただし、記録にない理由をAIが補った場合、それは仮説です。担当者への確認を経て、実際の判断根拠と区別する必要があります。また、熟練者のやり方にも古い慣行や個人的な工夫が混ざるため、組織として採用するルールは現行の方針と照合します。

生成AIは熟練者の対応を広げる手段になりうる

この議論に新しい実証結果を加えたのが、ブリニョルフソン、リー、レイモンドの「Generative AI at Work」です。2025年の学術誌掲載版は、企業の顧客サポート担当者5,172人を対象に、応対を助言する生成AIの段階的な導入を分析しました。

1時間当たりの問題解決件数は平均15%増加し、経験の浅い担当者や事前の業績が低い担当者で、より大きな改善が見られました。一方、最も熟練した層では速度の改善は小さく、品質の小幅な低下も報告されています。( Brynjolfsson, Li & Raymond(2025) )

著者らは、成果の高い担当者の行動パターンがAIを介して広がる可能性を論じています。ただし、これは一企業とその委託先における人への助言の効果であり、自律的な顧客対応やCUAを評価した研究ではありません。また、暗黙知そのものを直接測定し、完全に取り出せたと証明したわけでもありません。( 同論文 )

ここから本稿が重視するのは、「役に立つ応答を再現できること」と「人が判断根拠を理解して検証できること」を分ける必要性です。AIの提案が実務を助けても、なぜその提案が出たかを組織が説明できるとは限りません。形式知化を進めるなら、再現できた行動に加えて、適用条件、根拠、例外を人が確認できる形で残すことに意味があります。

研究をつなぐと三つの仕事が見えてくる

ここまでの研究は、対象も方法も異なります。

ポランニーやコリンズは知識の性質を論じ、野中らやクックとブラウンは組織で知識が生まれ、使われる仕組みを捉えています。
シュランスキーは移転の障害を調査し、クラインらは判断を調べる方法を提示し、生成AIの研究は特定の現場で支援の効果を測っています。

これらを一括して「暗黙知はAIで形式知化できる証拠」と読むことはできません。

それぞれを実務の観点でつなぐと、取り組む仕事は三つに整理できます。

第一に、説明できる部分を見つけて共有すること。
第二に、文書では伝わりきらない技能や文脈を、共同作業と練習で引き継ぐこと。
第三に、知識やAIの助言が別の案件でも役立つかを確かめ、修正することです。

これは研究間の違いを踏まえた、本稿の統合的な提案です。

この整理では、形式知化の成功を「何ページ書けたか」だけで判断しません。次の人が必要な情報に気づき、対応を選び、その理由を説明し、判断できない場合は相談できるようになったかを見ます。以下では、そのための具体的な記録と検証の方法に落とし込みます。

判断を引き継ぐための四つの要素

本稿では、ここまでの議論を実務に取り入れるため、整理の単位を「判断の記録」と呼びます。既存の研究で検証済みの尺度ではなく、本稿が提案する記録の枠組みです。作業の順番に加えて、次の四つをひとまとまりで残します。

  • 状況:何が起きていて、何を解決しようとしていたか。

  • 手がかり:どの情報や違和感に注目したか。

  • 判断理由:なぜその対応を選び、どの条件で別の対応になるか。

  • 行動と確認:何を行い、何をもって完了とし、どこから人に相談するか。

先ほどの仮想例なら、「返品の問い合わせ」に対して、「前回案内と現在の条件に食い違いがある」ことが手がかりになります。「矛盾した説明を重ねないため、案内方針の確認が必要」と理由を残し、「責任者に確認し、確定した案内と根拠を応対履歴に記録する」までつなぎます。

これなら、次の担当者は注意する情報と相談すべき条件を読み取れます。

使って確かめることで知識が育つ

記録を作ったら、別の担当者に使ってもらいます。同じ例をなぞるだけでなく、条件が少し違う案件でも、必要な情報を集め、判断し、迷ったら相談できるかを確かめます。「この場合も責任者に確認するのか」と迷ったなら、その条件がまだ記録に足りないということです。

評価では、通常案件に加えて、よく似ているが対応の異なる案件、情報不足で判断を止めるべき案件を用意します。正しい案内にたどり着いたかだけでなく、根拠にした情報と相談の判断も確認します。確認の往復や判断のばらつき、誤った案内による手戻りを見ながら、記録を直していきます。方針が変わったときに更新できるよう、根拠となる規程、確認者、確認日も添えておきます。

すべての感覚を言語化しきる必要はありません。文章だけで伝わりにくい部分には、対応の見学やロールプレイを組み合わせればよい。私たちは、形式知化の価値は、現場の経験を次の人が学び、判断できる足場に変えることにあると考えます。文書と実践を行き来することで、その足場は少しずつ確かなものになります。

CUAは画面と知識をつなぐ可能性を持つ

最後に、この取り組みの延長として注目したいのが、CUA(Computer-Using Agent)です。画面の情報を読み取り、クリックや文字入力を通じてソフトウェアを操作するAIエージェントを指します。( Anthropicの技術解説 )

本稿が考える今後の可能性として、作業記録と本人への確認を組み合わせれば、「どの画面の何を見て、どう判断したか」を整理し、確認済みの知識を実際の操作につなぐ支援も考えられます。画面を見るだけで判断理由までわかるわけではありませんが、知識を残す場面と使う場面を近づける可能性があります。あなたの現場で、次の人に引き継ぎたい判断は何でしょうか。

ナレッジ整備やAI活用について、お気軽にご相談ください。


参考文献

本文は、以下の代表的な文献を論点別に整理したものです。研究全体を網羅する系統的レビューではありません。書籍は出版社の紹介、論文は公開本文または出版社の要旨で確認できる範囲に基づいています。

  1. Polanyi, M. The Tacit Dimension. 初版1966年。参照先はUniversity of Chicago Press再刊版。
    書籍紹介

  2. Collins, H. (2010). Tacit and Explicit Knowledge. University of Chicago Press.
    書籍紹介

  3. Nonaka, I. (1994). “A Dynamic Theory of Organizational Knowledge Creation.” Organization Science, 5(1), 14–37.
    論文

  4. Nonaka, I., & von Krogh, G. (2009). “Tacit Knowledge and Knowledge Conversion: Controversy and Advancement in Organizational Knowledge Creation Theory.” Organization Science, 20(3), 635–652.
    論文

  5. Cook, S. D. N., & Brown, J. S. (1999). “Bridging Epistemologies: The Generative Dance Between Organizational Knowledge and Organizational Knowing.” Organization Science, 10(4), 381–400.
    論文

  6. Szulanski, G. (1996). “Exploring Internal Stickiness: Impediments to the Transfer of Best Practice Within the Firm.” Strategic Management Journal, 17(S2), 27–43.
    論文

  7. Klein, G. A., Calderwood, R., & MacGregor, D. (1989). “Critical Decision Method for Eliciting Knowledge.” IEEE Transactions on Systems, Man, and Cybernetics, 19(3), 462–472.
    論文

  8. Brynjolfsson, E., Li, D., & Raymond, L. (2025). “Generative AI at Work.” The Quarterly Journal of Economics, 140(2), 889–942.
    論文

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